2014年6月14日土曜日

歌声よ、届けかなたの、あなたのもとへ。

ブラジルカラーの黄色一色に染まったスタジアム…

待ちに待ったブラジルワールドカップが、開催国ブラジルとクロアチアの対戦でついに幕を開けました。

試合開始前のブラジルの国歌斉唱をご覧になられたでしょうか。

ブラジルの国歌斉唱が始まると、エースのネイマールをはじめ多くの選手が感極まって涙を流し、

6万人を超える観客が国歌斉唱というより「国歌熱唱」。

さらに、国歌を歌い終えるとまるでゴールを決めた時のごとく雄叫びをあげる選手たち。

さすがはサッカー王国ブラジルと思わせる凄まじい雰囲気でした。


サッカーの国際試合では、試合開始前に両国の国歌の斉唱が行われます。

僕は学校で「君が代」を習った記憶はないし、親から教わった覚えもありません。

僕に「君が代」を教えてくれたのはサッカーでした。

三度の飯よりサッカーが好きだった少年時代、テレビの前にしがみついて見た日本代表の試合で、試合前に流れるこの国歌を自然に覚えていったのです。

君が代だけでなく、学校や家庭が教えてくれない多くのことを学ばせてくれたサッカーは、僕にとって先生や父親のような存在だったのかもしれません。

さて、明日の日本代表の試合では、もちろん「君が代」が流れるわけですが、みなさんは「君が代」の歌詞の意味はご存知でしょうか。

「君が代は 千代に八千代に 細石の 巌となりて 苔の蒸すまで」
「きみがよは ちよにやちよに さざれいしの いわおとなりて こけのむすまで」

平仮名にしてみるとよくわかるのですが、「五・七・五・七・七」の形、つまり和歌となっています。

(*ちなみにこのブログのタイトルは毎回「五・七・五」になっています。)

というのも、この歌はもともと平安時代から庶民の間に伝わる和歌であり、

明治時代に国歌を定める必要が出てきた時に、この和歌に音をつけたのが「君が代」なのです。

他の国の国歌と比べると落ち着いた荘厳な雰囲気で、悪く言えば地味でちょっと暗い印象を持ちます。

しかし、僕はそこにこそ日本らしさを感じます。

例えばサッカーの試合に挑む選手を想像してみて下さい。

試合を前に選手たちは感情が高ぶってきます。そこに流れるのがこの「君が代」なわけです。

一度高まった感情は「無」の状態となり、気持ちを落ち着けることができます。

「禅」であったり「侘び寂び」とも言えるかもしれません。


国歌が終わった後、一度「無」に持って行った感情は一気に極限状態まで高まります。

大きくジャンプするためには、一度屈む必要があるのです。

言ってみれば、君が代は気持ちの「バネ」を縮める役割をしているのです。



では、この歌にはどういった意味があるのでしょうか。

「君が代は」
「天皇の御代(*在位する期間)が」もしくは「あなたの人生が」

「千代に八千代に」
「千年も、八千年も」 

「細石の」
「小さな石が」

「巌となりて」
「大きな石となって」 

「苔の蒸すまで」
「苔が生えるまで」

つまり…「天皇の御代(あなたの人生)が、千年も八千年も、小さな石が大きな石となって苔が生えるまで、ずっと続きますように」という意味になります。


君が代は、戦後以降、現在でもその歌詞が問題視されることがあります。

「君が代」の「君」は君主のことで、つまり「天皇」を意味するのがその要因です。

「君が代」を問題視する人たちは、この歌は「天皇を賛美しているからいけない」と口を揃えますが、天皇を賛美することの何がいけないと言うのでしょうか。

だったらイギリス国歌の「女王陛下万歳」や、スペイン国歌の「国王行進曲」もダメなのでしょうか。

また、「君」は「天皇」ではなく「大切な誰か、あなた」と解釈することもできます

 
「天皇の御代が永遠に続く」ということは「日本が永遠に存在するということであり」、それは「大切な誰かの人生がずっと続く」ということにつながるからです。

 その昔、世界では領土を巡っての「食うか食われるか」の侵略争いが繰り広げられてきました。

それが「戦争」だったわけです。

戦争に負けて他の国に侵略を許した場合、もちろん国はなくなり、君主は抹殺され、国民は奴隷となり、下手をすると殺されるのが常識でした。

ですから、大切な誰かを守るためには他国に侵略を許してはならず、君主が存在するということは、他国に侵略されていないことを象徴しているわけです。

日本という国は、2674年前(紀元前660年)に初代神武天皇が即位して以来、一度も侵略を受けることなく存続しており、これは現存する国家の中で最も長いのです。(*二番目に長いデンマークで1000年ちょっと)



また、「小さな石が大きな石となるまで」という歌詞は、「起こらないであろうことが起こるまで」という非現実的な比喩表現で、遠回しではありますが「永遠に」を表しています。

しかし、「小さな石が大きな石になる」という非現実的に思える現象は、実は科学的に十分に起こり得る事だそうです。
神社を訪れると、よくこんな石が置いてあるのをご存じないでしょうか。

生田神社(兵庫県神戸市)のさざれ石


橿原神宮(奈良県橿原市)のさざれ石

これが小さな石が合わさって大きな石となったもので、「さざれ石」と呼ばれるものです。

「小さな石が合わさって大きな石となる」というのは、国民一人一人が集まって一つの国を成す様子を想像させます。

この「さざれ石」のごとく日本国民が一つとなり、日本代表の勝利を信じて応援すれば、日本代表がこの「食うか食われるか」のワールドカップの戦いを勝ち抜き、最も長くピッチに立ち続けることもできるのではないでしょうか。
 

山田 剛士

2014年5月6日火曜日

ほととぎす、道に迷って、とほほです。

東京のど真ん中で、人ごみに埋もれた小さな日本人が、道に迷って立ちすくんでいます。

迷子なのに、迷子の外国人に道を聞かれました。

「わからへんなんて不親切なこと言えへん。ここぞおもてなしや!」と思い、

「あぁここね。知ってるよ」と口が滑りました。

通りすがりのおじさんに「これってあっちですよね?」と、あくまでも「知ってるで。俺、ここ知ってるけど、一応念のためおじさんに確認しとくわ」っていうスタンスで聞きました。

そしたらおじさんが無言で真逆の方向を指さしました。

東京のど真ん中で、人ごみに埋もれた小さな日本人が、赤っ恥かいて立ちすくんでいます。

どうも山田です。

皆さん、ご無沙汰しております。

7年ほど愛用していたパソコンがお逝きになられたため、全然更新ができていませんでした。


さて、3月に東京に行ってきました。

今回東京に行ったのは、3月4日から7日にかけて幕張メッセで開催された日本最大級の食料品展示会「FOODEX JAPAN」に出展するフランスの企業「ヴィ・ド・シャトー社」の通訳をするためでした。

僕がフランスで勤務していた「セーヌ・エ・マルヌ県経済振興公社」は、セーヌ・エ・マルヌ県内の企業等を支援する会社であったため、僕は大学での日本文化講義や小学校での日本文化体験授業の傍ら、日本への進出を希望する企業等への支援として、翻訳などの仕事もしていました。

今回通訳を担当することになったこの「ヴィ・ド・シャトー社」は、僕がホームページやカタログの翻訳を担当した企業の一つでした。

日仏交流コーディネーターとしての任務が終わり、帰国した現在でも、こうしてセーヌ・エ・マルヌ県の仕事ができることは大きな喜びです。
 
ヴィ・ド・シャトー社は、フランス各地にある様々な食料品メーカーや生産業者の商品を海外に輸出販売する会社で、チョコレート、ビスケット、キャンディー、マスタード、フォアグラ、ハチミツ、ジャム、岩塩、BIO食品、ワイン、ビール、リキュールなどなど、取り扱う商品は多岐にわたります。

展示会前日に会場入りし、来日したヴィ・ド・シャトー社代表のコルレ氏と再会し、大量の展示商品やサンプル商品を並べるなどブースの設営にかかりました。


ヴィ・ド・シャトー社の展示ブース


セーヌ・エ・マルヌ県経済振興公社からの支援を示すプレート


翌日から、いよいよ4日間の展示会が始まりました。
 
連日、多くの来場者の方々にご訪問いただき、あっという間に時が過ぎていきました。
 
まるでパリのお土産屋さんにありそうなお洒落なパッケージのお菓子や、ワイン大国フランスでは珍しいビール、花弁入りのジャム、スミレを使った商品などが特に来場者を惹きつけていました。


 
 
パッケージがお洒落なお菓子類
 
 

珍しいフランスのビール


僕は、通訳業務の他に、来場者にサンプルのお菓子を配ったり、企業説明や商品説明をしてまわったりもしました。
 
裏でこっそりサンプル用のお菓子をつまみ食いしてたのは内緒の話です。
 
と思ったら、コルレ氏は表で堂々とつまみ食いしてました。さすがはフランス人。
 
氏曰く、「どんな商品か食べてみなきゃお客さんに説明できないでしょ」とのこと。
 
なるほど。その言い訳もまたフランス人らしく論理的。
 
 
4日間にわたる展示会は無事終了。

輸入業者、商社、小売店など、多くの日本企業と交渉することができ、コルレ氏も満足して帰国されました。


日本には、中華料理、韓国料理、イタリア料理、フランス料理、インド料理などなど、世界中から料理や食料品が入ってきます。

さらに、外国から入ってきた料理を自分たちのの舌に合うように改良し、新しいものを作ってしまう。

ラーメン、天ぷら、オムライス、とんかつなどなど数えればキリがありません。

それでいて、お米を中心とした独自の食文化を守り続けています。

また、次から次へと流行が変化し、新しい食品が発見され開発されていきます。

これほど食のバラエティーに富んだ国は他になく、 日本はまさに「食のるつぼ」とも言える国なのではないかと思うのです。

すなわち、日本ほど食料品市場において格好の舞台は他にないでしょう。

今後、ヴィ・ド・シャトー社がその日本の市場において成功することを願っています。


さて、展示会終了後は、せっかく東京に来たので、ちょっと観光したり、友達と会ったりもしました。


 
 
まずは大学時代の友人で、以前このブログにも登場(以下リンク参照: http://takeshi-yamada.blogspot.jp/2013/01/blog-post.html)した龍樹。
 
二人で歩いてた時、龍樹が黙って携帯の画像を見せてきました。
 
夜やったし、歩きながらだったので画像がよく見えず、頭になんか巻いた男の人だというのだけわかりました。
 
「誰これ?さかなくん?」と言ってしまったが後の祭り。
 
実は、画像ではなく、龍樹のお父さんとのTV電話だったのです。
 
おっちゃんが「ぎょぎょぎょ!」と言ったたのはもはや言わずもがなな話。
 
おっちゃん、ごめんなさい(笑)
 

 
 
続いては、エコール・ポリテクニック(日本でいう東大)出身で、現在はフランスの某銀行の東京支社に出張しているフランクことキキ。
 
彼とは、お互いがまだ学生だった時に京都で出会いました。
 
日本に研修に来ていたエコール・ポリテクニックの学生と、京都でフランス語を学ぶ学生との交流会があり、そこで意気投合しました。
 
あれから5年が経ち、いまだに交流は続いています。
 
当時はやんちゃ坊主だった彼も、なんだか大人になって雰囲気が落ち着いてきた感じがします。
 
次はいつどこで再会できるのか、今から楽しみです。
 

 
 
それから、去年パリで出会ったトマとあやかちゃん。

全然関係ない龍樹を連れていきましたが、温かく歓迎してくれた美男美女のお二人。
 
ちなみにこの写真、トマは腰を屈めていますが、僕は背伸びをしています。

みんなで原宿のお洒落カフェでランチをした後、原宿ぶらり散歩をしました。

二人が居なければ、碁盤の目になった道で育った京都人の龍樹と、方角は山で判断する神戸っ子の僕は迷子になっていたことでしょう。

しかし、あやかちゃんは北海道出身の方向音痴で、実のところ全ての道案内をしてくれたのはフランス人のトマでした(笑)

関西からは遠い東京にいて、めったに会えない人たちに会えて本当によかった。

こういう出会いや再会があるから旅はいいですね。

さあ、次はどの街に行こうかな…。


山田 剛士

2014年3月27日木曜日

ガキんちょの、思い出覚ます、肉団子。

あれはもう20年も前、僕が小学校1年生の頃でした。

バレンタインデーの日。

女の子が好きな男の子にチョコレートを贈る日だと、おぼろげながらも知っていた僕は、

幼いながらも恋心を抱いていたMちゃんからのチョコレートを待っていました。

しかし、Mちゃんからは何ももらえず、代わりにインド人のSちゃんが手作りクッキーをくれました。

そして、ホワイトデーの日。

バレンタインデーのお返しやから渡さなあかんでと、母親に飴ちゃんの袋をランドセルに突っ込まれました。

しかし、どうも渡す気になれなかった僕は、その日の晩に、母親に襟首をつかまれてインド人のSちゃんの家まで飴ちゃんを届ける羽目になりました。

翌日、学校に行くと、何やら女の子たちがざわざわ騒いでいました。

そこに、Mちゃんが教室に入って来ました。

すると、SちゃんがMちゃんのところに走っていき、大きな声でこう言いました。

「Mちゃ~ん!おはよ!ねぇねぇ聞いて!たけしくんが昨日ホワイトデーにキャンディーくれたの!」

なんでやねん!なんで言うねん!なんでMちゃんに言うね~ん!!

山田少年、撃沈。

甘酸っぱい初恋と失恋の思い出でした。

あ、どうも、山田です。

思えば、あれが僕にとって初めての国際交流だったのかもしれません。


さて、日仏交流コーディネーターとしての任務が終わり、フランスから帰国してからもう半年近くが経とうとしています。

現在、僕は兵庫県国際交流協会に勤務していますが、フランスでの仕事にはまだ続きがあります。


フランスでの任務の一つに現地の小学校での日本文化体験授業というものがありました。

グレッツ・アルマンヴィリエ市という、人口わずか8千人ほどの小さな町にある、ジョルジュ・トラヴェール小学校で、3年生を対象に授業を行なっていました。

パワーポイントを使った日本の紹介、紙芝居の読み聞かせ、お弁当作り、折り紙などの体験授業をしていました。

神戸の街を紹介

紙芝居「かちかちやま」

フランスの子供たちが作ったお弁当

また、僕の前任の方のご尽力もあり、僕が現地に赴任した年から、

このジョルジュ・トラヴェール小学校と神戸市の御影小学校との間で交流が始まりました。

両校の三年生の間で、作品などを贈り合うことで交流し、僕の授業の中でも贈り物の作品を製作したりしました。

ジョルジュ・トラヴェール小学校から贈られた折り紙を取り入れた作品


御影小学校から贈られた書道作品


帰国後、今度は御影小学校で、フランス文化についての授業をすることになりました。

ジョルジュ・トラヴェール小学校と交流をしている御影小学校の3年生4クラスを回って、

フランスがどんな国なのか、フランスの子供たちがどんな生活をしているのかなどについてお話しました。





授業の後は、子供たちと一緒に給食をいただきました。

給食なんて小学校卒業ぶりなので15年ぶりでした。

この日の献立はご飯、肉団子、野菜スープ、ふりかけ、ミルク

フランスと日本の両国の小学校で授業をしてみて感じたのは、「教育」というものがその国の国民性に与える影響の大きさでした。

個性を重んじるフランスでは、「自分がどのように考えるか、自分がどのようにしたいか」を表現することに重きを置かれます。

そのため、フランス人は、自分の考えや主張をはっきりと述べる事ができるのでしょう。

一方で日本では、「他人と協力することや、他人を思いやること」に重きが置かれます。

それは、日本の小学校にあってフランスの小学校にないものを挙げてみればハッキリします。

組体操、体操服、前へ習え、運動会、掃除の時間、合唱コンクール、日直、そして給食…どれも他人と協力しなければできないことです。

日本とフランス、どちらが正しいなどという話ではありません。

幼い時に異国の文化や習慣を学ぶことによって、

「こういう世界があるんだ」「外国と日本は違うんだ」といったことを理解することが大切なのではないでしょうか。

「違い」があるからこそ、国際交流というものはおもしろいのです。


山田 剛士

2014年3月13日木曜日

掌を、合わせて見上げる、雲なき空よ。

あれから3年の月日が経ちました。

未だにそこに在り続ける仮設住宅、原発、そして残像・・・。

東日本大震災は、日本に悲しい現実を残していきました。


僕は、昨年の10月まで日仏交流コーディネーターとしてフランスに派遣され、

その活動の一環として、現地の大学で日本についての講義をしてきました。

講義をするにあたって、僕が最も取り上げたかったテーマ、それが「東日本大震災」についてでした。

なぜなら、それが「日本人の精神」というものを最も説明しやすかったからです。

マルヌ・ラ・ヴァレ大学での第二回目の講義でこのテーマを取り上げました。

大学側は、地震、津波に加えて原発の話もして欲しいとのことだったので、

それも併せて「Tsunami et Fukushima -impacts dans la vie politique et la société japonaise-(津波とフクシマ-日本社会と政界への衝撃-)」と題して講義を行いました。

この講義に集まってくれた100人近い学生たちに僕が伝えたかったのは、東日本大震災という生死を分ける困難な状況の中で被災者が見せた日本人の精神でした。








あの時、世界が一番驚いたのは、地震でも、津波でも、原発事故でもなく、

被災者の勇気であり、冷静さであり、思いやりではなかったでしょうか。

東日本大震災の際に見られた光景は、例えば、人々が一人一つのおにぎりを受け取るために列に並ぶ姿であり、おにぎりを配ってくれる人に対する感謝のお辞儀であり、頂いたおにぎりを自分では食べずに他人に譲り合う自己犠牲でした。

食べ物の奪い合いはもちろん、スリも強盗も殺人も全くといっていいほど見られませんでした。

しかし、世界の他の国では同じようにはいきません。

実際、アメリカでハリケーンが来た時、あるいは中国で地震が起きた時、強盗や殺人などの犯罪が相次ぎ、無秩序な混乱状態となりました。

これが世界の「常識」であり、それを覆したのは、家族や友達が津波で流され、自らの命も危うい状況の中で、東北の被災者が示した日本人の精神です。

人はああいった非日常的な危機的な状況においてこそ本当の姿が出るのだと思います。

つまり、あの被災者の姿こそが日本人が潜在的に持っている精神であり、日本という自然に溢れた島国で先祖代々受け継がれてきた精神でもあると思うのです。

僕は、あの大災害が我々に残したものは悲しい現実だけではないと信じています。

あの大災害は我々日本人に、日本人とはどういった民族なのか、その精神を再認識させてくれました。

あの日、日本で何が起こったのかを「忘れない」ということは大事なことですが、いずれまた自然災害はやってくるでしょう。それを避けることは出来ません。

その時、我々は何ができるのか、何をすべきなのか、あるいは日常をどのように生きるべきなのか…

それを「考える」ことこそ、あの大災害が残してくれたものなのかもしれません。


がんばろう日本。

進もう、前へ、前へ。



山田 剛士

2014年1月22日水曜日

モンマルトル、アートが街に、あふれとる。

さて、先日はサクレクール寺院を中心にモンマルトルをご紹介しましたが、

今回はモンマルトルのまた違った魅力をお届けしたいと思います。

サクレクール寺院の西側、徒歩2、3分のところにテルトル広場(Place du Tertre)があります。

たくさんの画家がここに集まり、絵を売ったり似顔絵を描いたりしています。




モンマルトルは「芸術家の街」と言われ、昔から芸術家の集まる街で、ゴッホ、ルノワール、ピカソ、モディリアーニなど、多くの画家がここで絵を描きました。

今でもテルトル広場を中心に多くの画家が絵を描き、昔から続くその雰囲気は衰えることがありません。

さて、ちょっくら広場をぶらぶらしてみましょう。


いつかこんな感じの絵を部屋に飾ってみたいものです。


様々な絵が溢れるこの広場は、さながらちょっとした美術館のようです。


観光客で賑わう広場に、バイオリン弾きが音色をつけます。


ぶらぶらしていると、裸体画を売っている80にも90にもなろうかというヨボヨボのお爺さんがいました。

「ほんまにこの人が描いたんかな?」と思って、その絵とお爺さんを交互にじろじろ見てると、

「お~キムタク!!」と言われました。

日本人客の気を引くために覚えたのでしょうが、なんかちょっと古いな…。

「それ、誰に教えてもらったん?」と聞くと、「この前ここを通った若い日本人の女の子だよ!」と言われました。

「この前!?嘘つけっ!」と思ったけど、確かにお爺さんからしたら「この前」なのかもしれません。

「似顔絵でも描いて欲しいのか?」と聞いてきたお爺さんは、「いいえ」と言う隙も与えない間で一言。

「わしゃ女しか描かんぞ!」って…。

うるさいエロじじい!


広場の片隅でチェスの一局。これだけで絵になります。


画家、音楽家、大道芸人など、芸術に情熱を捧げる人が溢れるモンマルトルはなんとも味のある街なのです。

そんなモンマルトルの街を舞台にした映画があります。

「アメリ」です。

フランスはもちろん、日本でも大ヒットした映画で、フランス映画といえばこの映画を挙げる人も多いでしょう。

妄想好きで、悪戯っ子、お節介でもある主人公のアメリが、モンマルトルを舞台に珍道中を繰り広げる物語。

モンマルトルを歩いていると、アメリに出てきた八百屋さんを発見。


映画「アメリ」に出てくる八百屋さん


どこにでもある普通の八百屋さんでした。

さらに歩くと、主人公のアメリが働いていたカフェ「レ・ドゥー・ムーラン(Les Deux Moulins)」がありました。




店内はお客さんでいっぱいでしたが、まさかの映画でアメリが座っていた席だけが空いていました。

店員さん曰く「この席は日本人観光客のために空けてあるんだ」とのこと。

確かに、日本人ほど「ロケ地めぐり」が好きな人たちもいないかもしれません。




透明のボードにはアメリ役を演じ、今やフランスを代表する女優となったオドレイ・トトゥのポスターとサインがありました。




映画にも登場したレ・ドゥー・ムーランの名物がこの「クレームブリュレ」。

美味しいの一言です。

「アメリ」を観たことのない方は是非一度ご覧ください。

きっとモンマルトルの魅力が伝わってくると思います。


さて、「レ・ドゥー・ムーラン」から南へ数分下ったところには「ムーラン・ルージュ」という有名な建物があります。


ムーラン・ルージュ


「ムーラン・ルージュ(Moulin Rouge)」はフランス語で「赤い風車」という意味で、まったくその名前のまんまの建物です。

何の建物かと言うと、実はここ、映画化されるほど有名な「高級キャバレー」なんです。

つまり、半裸の女性たちがここで歌やダンスなどのショーをするわけです。

あ!絶対あのエロじじい行ってるやん!

絶対裸体画売った金でキャバレー行ってるやん!

なんならキャバレーで裸体画描いてるやん!

※キャバレーは決して卑猥な場所ではありません。


最後に、モンマルトルの隠れキャラをご紹介してお別れしましょう。




20世紀を代表するフランスの有名作家マルセル・エイメの小説「壁抜け男」に登場するデュティユルの像です。

小説からは抜け出せましたが、モンマルトルの壁は抜けれなかったようです。


みなさんも、パリを訪れる機会があれば、是非一度モンマルトルに行ってみてください。

この壁から抜けれなくなったおじさんのように、あなたもモンマルトルの虜になるでしょう。



山田 剛士

2014年1月15日水曜日

囲む黒、頭真っ白、青二才。

10年前、僕は初めてフランス・パリの地を踏みました。

パリに着いた翌日、僕が最初に向かったのが「モンマルトル」という場所でした。

「Barbès Rochechouart」という駅で降りるはずが、間違えて終点の「Porte de Clignancourt」という駅に降り立ちました。

駅から外に出た僕は、目の前のその光景に目を疑いました。

見渡す限り黒人しかいない…。

パリ2日目の17歳の青二才には、その場所はただただ「恐怖」でしかありませんでした。

まるでライオンの檻に入れられたうさぎのような心持ちでした。

当時はまだフランス語なんてカタコトの「ぼんじゅーる」と「めるしー」しか言えなかった僕は、とにかくそこを抜けだそうと速足で歩きます。

なぜ駅に戻らなかったのかは覚えていませんが、歩いているうちに駅もどこかわからなくなりました。

歩けども歩けども、でっかい黒人やいかついアラブ人が溢れていました。

実は、このPorte de Clignancourtという場所、パリ市内で最も治安の悪いと言われるパリ市内の一番北に位置しており、この近辺には、黒人やアラブ人をはじめとする移民層が多いのです。

さらにこのPorte de Clignancourtはパリでも最大規模の蚤の市が開催される場所で、安いものを求めてあちこちから貧困層が集まる場所だったのです。

たとえ身ぐるみ剥がされようとも、命さえ助かればいいぐらいの気持ちで、とにかく速歩きでひたすらに歩き続けました。

ようやく駅を見つけた僕は、電車に飛び乗り、結局、モンマルトルには行くことなくそのまま帰宅…。

ほろ苦い17歳の淡い記憶でございました。

その一ヶ月後、もう一度モンマルトルに向かってみましたら、今度は迷うことなく辿り着きました。

そして、このモンマルトルと言う場所に魅了され、以来、幾度となくここに足を運び、パリで一番のお気に入りスポットとなりました。

エッフェル塔、凱旋門、ノートルダム寺院、ルーヴル美術館、シャンゼリゼ通り、ヴェルサイユ宮殿など、パリには観光名所がたくさんありますが、僕の中では、他のどこよりもモンマルトルにパリらしさを感じます。

モンマルトルは僕の庭のようなもんです。

というわけで、今回は僕の庭である「モンマルトル」にみなさんをお連れしましょう。

それでは行きますよ~「On y va!!」 ※On y va(オニヴァ) は英語で言うところのLet's go!!

モンマルトルに行くには、メトロに乗って、4番線の「Barbès Rochechouart」(モンマルトルまで徒歩10分)、もしくは2番線の「Anvers」(モンマルトルまで徒歩3分)で降りてください。

駅を降りて、お土産屋さんがひしめき合う坂道を登ると、そこにそびえ立つのは…




モンマルトルのシンボルともいえるサクレクール寺院(Basilique du Sacré-Coeur)です。

パリでは珍しいビザンチン様式というギリシャやトルコなどでよくみられる建築様式が特徴的な教会です。

ちなみに、サクレ(Sacré)とは「聖なる」、クール(Coeur)とは「心」という意味で、この教会はつまり「聖なる心」という何ともお洒落な名が冠されています。

その名が表すように、真っ白で純白な色をしています。




休日になると、サクレクール寺院の下にはたくさんの若者や観光客が集まります。

教会の中の椅子に座って、あるいは教会下の階段や芝生に座ってボケーッとしているだけで、何だか心が洗われるような気持ちになります。

しかし、ここには「聖なる心」とは裏腹の「汚い心」を持った輩も存在します。


画像はthe Bazooka.comより引用


僕が「ミサンガおじさん」と呼ぶ輩です。

サクレクール寺院の敷地内に入ってすぐのところで待ち構えるミサンガおじさんたちは、

観光客を見つけると、数人でやってきて否応なしに絡んできます。

気軽な感じで声を掛け、勝手に腕にミサンガを巻いてきます。

断っても断ってもかなりしつこく絡んできますのでご注意ください。

彼らの口癖は「ノーマネー!ノーマネー!」ですが、断りきれずに巻かれてしまうと、高額なミサンガ料金を取られてしまいます。

だいたい20~30ユーロ(約3000円~4000円)要求してきます。

ノーマネーというのは「お金を取らない」ということではなく、「俺にはお金がない(=だからお前からぼったくる)」ということなのでしょうか…。

なんとかミサンガおじさんを振り切って、サクレクール寺院のある丘の上まで来たら、回れ右して後ろを振り返ってみてください。

ご覧ください、この大パノラマ!!ここからパリの街並みが一望できます。




さて、パリの街並みをご堪能いただいたら、続いて左の方に見える街頭をご覧ください。

街頭に人が登っていますね。

これは僕が「リフティングおじさん」と呼ぶ謎のパフォーマーです。

もうちょっと近くで見てみましょう。




口にペンをくわえて、そのペン先でボールを回しております。

いつもより余計に回しております。




片手を離せば確実に救急車もんですが、リフティングおじさんは落ちません。ボールも落としません。




さらに、この小さく狭い台の上でリフティングを披露。

ボールさばきが乱れてここから足を滑らせたら確実に、丘の下までゴロンゴロンなりますが、リフティングおじさんは落ちません。ボールも落としません。

リフティングおじさんは、いつここにいるのかという情報がないため、行ってもいなかったり、行ったらちょうど終わったところやったりします。

リフティングおじさんに会えたらラッキーです。幸運なことがあるかもしれません。

しかも、落ちない、落とさないということから、世界中から受験生がやってきます。

って僕が言うてるだけです。

他にもサクレクール寺院の周辺では、色んなパフォーマンスが行われています。


モンマルトルはこのサクレクール寺院だけではないのですが、長くなったので、今回はここまで。

というわけで、モンマルトル第2編に続く…


山田 剛士

2014年1月14日火曜日

白球と、夢を追いかけ、芝を舞う。

今日は成人式ですね。

新成人のみなさん、おめでとうございます。

新成人と言えば…フランスで出会った3人の青年を思い出します。


僕が毎週日曜日に子供たちのコーチをしていたNSC(Nippon Soccer Club)は、

ACBB(Athletic Club Boulogne-Billancourt)というチームのグランドを借りて活動しているのですが、

そのACBBに流通経済大学(通称流経大)から3人の青年、はるひ、健、慶太がサッカー留学のため入団してきたのです。

流経大サッカー部は、ここ十数年の間に50人以上のプロ選手を輩出している大学サッカーの名門。

ACBBと流経大の提携事業の一環でフランスにやって来た彼ら3人は、NSCの練習もお手伝いしてくれていました。


子供たちの前でリフティングを披露する慶太


高校時代にフランスに一年間サッカー留学していた僕は、彼らをかつての自分と重ね合わせて見ていました。

同じような境遇を経験している先輩として、何らかの形で彼らの手助けをしてあげたいと思っていたのですが、

彼らがフランスに来たのはちょうど僕が帰国する1か月前で、仕事も忙しく、なかなかそういったこともできませんでした。

そんな中、一つだけ、手助けというほどのことではないのですが、地元紙「ル・パリジャン」が彼らを取材したいとの話があったので、僕が志願して通訳をさせていただきました。

彼らが滞在するパリ国際学生都市(フランスで学問等を学ぶために世界中から集まる留学生が宿泊、滞在する施設)で取材は行われました。


ル・パリジャン紙の記者から取材を受ける3人と通訳をする山田


普段は普通の大学生、どこにでも居そうな若者ですが、サッカーの話となると目つきが変わり、

フランスでの意気込みを語る彼らの姿に、サッカーに対する情熱を垣間見ることができました。


インタビューの後は、ル・パリジャン紙専属のカメラマンがやって来て、写真撮影が始まりました。


その立ち居振る舞いはすでにプロの風格

これがまた長い…

フランス人ってたいていそうなのですが、自分の好きなことに対しては非常にこだわりが強く、自分が納得いくまで時間をかけます。

まさかカメラマンの写真に対する情熱まで感じるとは思いませんでした。

3人は若干うんざりしていましたが(笑)


そして、数日後、3人の記事がル・パリジャン紙に掲載されました。


ル・パリジャン紙の記事


ル・パリジャン紙はフランスの地方紙では最大の新聞で、その新聞にここまで大きく扱われたことはすでに快挙と言えます。

しかし、彼らはそんなことでは満足するはずがありません。

もっと先のより大きな目標に目を向けているはずです。


ACBB(左側オレンジのユニフォーム)の試合風景。

現在、フランス6部リーグに所属するACBBは、CFA2(フランス5部リーグ)への昇格を目指しています。

6部リーグとはいえ非常にレベルは高く、中には元プロ選手も多くいます。

カップ戦のクープ・ドゥ・フランス(日本でいう天皇杯)ではあと2試合勝てば1部リーグのチームと対戦できるところまでいったようですし、リーグ戦でも現在4位と、昇格を狙える位置につけており、これから昇格へ向けた熾烈な争いが繰り広げられるでしょう。

彼ら3人にとってもここからが勝負。

厳しい戦いの中で揉まれ、サッカー選手としても、また人間としても大きくなっていって欲しいと思います。


(左から)健、山田、はるひ


異国の地でサッカーをするということは本当に大変なことです。

だからこそ、そこから得られるものは多くあるでしょうし、日本では感じられない喜びや楽しさも味わえると思います。

3人の若きサムライの雄姿を遠く日本から応援しています。

はるひ、健、慶太、頑張れ!そして、成人おめでとう!


山田 剛士