2022年3月29日火曜日

サクラ咲く、冬を乗り越え、花開く春。

道を歩いていると、薄く淡い赤があちらこちらで目を引くようになりました。枝枝に咲き誇るその花びらを目にするたびに心が軽くなります。「桜」の季節です。

桜(サクラ)という言葉は「稲」を意味する「サ」と「座る場所」を意味する「クラ」に由来します。

その昔、春になると「稲の神様」が桜の木に降りてくるとされていました。そのため「稲の神様が座る場所」が「サクラ」となったのです。また、稲の神様が座ったところではその花が開くと考えられていました。それを合図に、つまり稲の神様をお迎えしてから、百姓は田植えを始めます。ですから、昔は、桜の木は田んぼの近くに植えられることが多かったようです。

さて、桜の花の芽(花芽)は開花する前の年の夏までに作られます。しかし、すぐに花が咲くことはありません。秋に葉が落ちた後、芽は成長を止めて眠りに入ります。そして冬の寒い時期になると寒さで目を覚まします。その後は、春に向けだんだんと暖かくなるのにあわせて再び成長しながら準備を整え、ようやく春に花を咲かせるのです。つまり、桜の花は寒い冬を経ないことには咲かない仕組みになっているのです。

これは私たちの人生についても同じではないでしょうか。「開花」や「花開く」といった言葉は「才能が発揮される」ことや「成功する」ことを表す比喩として使われることも多いですが、その道で何かを成すためには、苦しいことや大変なことをしなければなりません。

どんなに美しい花を咲かす桜でも、冬の寒さがなければ、その花が開くことはありません。それと同じように、どんなに才能があったとしても、苦しいことに耐えなければ、その花が開くことはありません。

逆に、苦しいこともなく成せるようなことは大したものではありません。大きなことを成すためには、それだけの対価となる苦労や努力が必要なのです。それが種となり、やがて美しい花を咲かすのです。

ちなみに、フランス語で「(花が)咲く、(才能が)開花する」という動詞は s’épanouir (セパヌイール) と言いますが、それと1文字違いの s’évanouir (セヴァヌイール) という動詞があります。こちらは真逆の意味で「見えなくなる、姿を消す」という意味です。

「s’épanouir 才能が花開く」か「s’évanouir 姿を消してしまう」かはほんの少しの違いなのです。その違いは「苦しくても続けることができる」か「苦しくてやめてしまうか」の違いで、「苦しくとも続けることができる能力」を才能と言うのだと思います。

才能ある人がなぜ苦しいことを続けることができるかというと「美しく咲く花」を常に思い浮かべることができるからでしょう。そうでない人は「今の苦しいこと」にしか目がいかないのです。いつか咲かす美しい花を頭に浮かべれば、苦しくても踏ん張ることができるのではないでしょうか。

最後に、江戸時代の禅僧・良寛和尚の一句をご紹介しましょう。

「いざ子ども、山べにゆかむ桜見に、明日ともいはば、散りもこそせめ(さぁ子供たちよ、桜の花を見に山のあたりに行こう、明日なんて言ってたら散ってしまうよ)」

良寛和尚が「さぁ、いつ行くの…?『今』でしょ!」と言ったかどうかは定かではありませんが、いつか美しい花を咲かせるためには「今」が大事です。

2022年3月17日木曜日

懸命に、生きた今こそ、未来成す

フランス語をやっていると、日々、様々な「気づき」があります。


先日はこんなことに気がつきました。


フランス語にavoir peur「恐れる・心配する」という表現があるのですが、その対象は常に「未来のまだ起こっていないこと」になります。

 

そのことを説明している際に、「過去のことを恐れたり、心配したりすることはあり得ない」ということに気がついたのです。

 

恐れ、心配、不安、悩み…そういったものはすべて、これから起こるかもしれないことを考えた時に出てくるものです。

 

そのように考えると、悩みを抱える人、不安に駆られている人たちは「未来」を生きてしまっているのかもしれません。

 

でも、「未来」のことなんて、結局は誰にもわかりません。

 

1時間後に富士山が噴火するかもしれないし、明日ロシアの大統領が暗殺されるかもしれません。

 

そもそも、自分が「明日」も生きることができる保証など、どこにもありません。

 

大切なのは「今」を生きることなんだと思います。

 

「今」の自分に何ができるのか、「今」の自分は何をしなければならないのか。

 

その積み重ねが「未来」になります。


「今」を一所懸命に生きていれば、不安や心配もなくなるかもしれません。


確かに、どんなに不安なことや心配なことがあっても、自分がすべきことに集中し、目の前のことに没頭しているときには、そういった不安や心配は忘れているような気がします。


ちなみに、実は日本語には「未来形」というものが存在しません。

 

ということは、私たちの先祖たる日本人はみな、「未来」のことはそれほど考えなかったのかもしれません。

 

おそらく、自然災害が多く、地震、津波、噴火、台風、洪水などがいつ起こるかわからない日本の地においては、これからの不安や心配を抱いても「仕方ない」と考えられていたのではないでしょうか。


そうであれば、将来の不安や心配は、豊かさがもたらしたある種の現代病のようなものなのかもしれません。


現代では「死」というものが遠いものに感じられるようになり、あたかも「明日」が保証されているような感覚に捉われてしまっているように思います。


「今」できるはずのことを「明日」に先延ばしにしたり、「今」出すべき力を「明日」のためにとっておいたり…。


「今」できることに「全力」で「本気」で「懸命」に取り組んでこそ、それがやがてしあわせな「未来」につながってゆきます。


ここであの林修先生の名言が思い起こされます。


「いつやるの?今でしょ!」