2014年6月14日土曜日

歌声よ、届けかなたの、あなたのもとへ。

ブラジルカラーの黄色一色に染まったスタジアム…

待ちに待ったブラジルワールドカップが、開催国ブラジルとクロアチアの対戦でついに幕を開けました。

試合開始前のブラジルの国歌斉唱をご覧になられたでしょうか。

ブラジルの国歌斉唱が始まると、エースのネイマールをはじめ多くの選手が感極まって涙を流し、

6万人を超える観客が国歌斉唱というより「国歌熱唱」。

さらに、国歌を歌い終えるとまるでゴールを決めた時のごとく雄叫びをあげる選手たち。

さすがはサッカー王国ブラジルと思わせる凄まじい雰囲気でした。


サッカーの国際試合では、試合開始前に両国の国歌の斉唱が行われます。

僕は学校で「君が代」を習った記憶はないし、親から教わった覚えもありません。

僕に「君が代」を教えてくれたのはサッカーでした。

三度の飯よりサッカーが好きだった少年時代、テレビの前にしがみついて見た日本代表の試合で、試合前に流れるこの国歌を自然に覚えていったのです。

君が代だけでなく、学校や家庭が教えてくれない多くのことを学ばせてくれたサッカーは、僕にとって先生や父親のような存在だったのかもしれません。

さて、明日の日本代表の試合では、もちろん「君が代」が流れるわけですが、みなさんは「君が代」の歌詞の意味はご存知でしょうか。

「君が代は 千代に八千代に 細石の 巌となりて 苔の蒸すまで」
「きみがよは ちよにやちよに さざれいしの いわおとなりて こけのむすまで」

平仮名にしてみるとよくわかるのですが、「五・七・五・七・七」の形、つまり和歌となっています。

(*ちなみにこのブログのタイトルは毎回「五・七・五」になっています。)

というのも、この歌はもともと平安時代から庶民の間に伝わる和歌であり、

明治時代に国歌を定める必要が出てきた時に、この和歌に音をつけたのが「君が代」なのです。

他の国の国歌と比べると落ち着いた荘厳な雰囲気で、悪く言えば地味でちょっと暗い印象を持ちます。

しかし、僕はそこにこそ日本らしさを感じます。

例えばサッカーの試合に挑む選手を想像してみて下さい。

試合を前に選手たちは感情が高ぶってきます。そこに流れるのがこの「君が代」なわけです。

一度高まった感情は「無」の状態となり、気持ちを落ち着けることができます。

「禅」であったり「侘び寂び」とも言えるかもしれません。


国歌が終わった後、一度「無」に持って行った感情は一気に極限状態まで高まります。

大きくジャンプするためには、一度屈む必要があるのです。

言ってみれば、君が代は気持ちの「バネ」を縮める役割をしているのです。



では、この歌にはどういった意味があるのでしょうか。

「君が代は」
「天皇の御代(*在位する期間)が」もしくは「あなたの人生が」

「千代に八千代に」
「千年も、八千年も」 

「細石の」
「小さな石が」

「巌となりて」
「大きな石となって」 

「苔の蒸すまで」
「苔が生えるまで」

つまり…「天皇の御代(あなたの人生)が、千年も八千年も、小さな石が大きな石となって苔が生えるまで、ずっと続きますように」という意味になります。


君が代は、戦後以降、現在でもその歌詞が問題視されることがあります。

「君が代」の「君」は君主のことで、つまり「天皇」を意味するのがその要因です。

「君が代」を問題視する人たちは、この歌は「天皇を賛美しているからいけない」と口を揃えますが、天皇を賛美することの何がいけないと言うのでしょうか。

だったらイギリス国歌の「女王陛下万歳」や、スペイン国歌の「国王行進曲」もダメなのでしょうか。

また、「君」は「天皇」ではなく「大切な誰か、あなた」と解釈することもできます

 
「天皇の御代が永遠に続く」ということは「日本が永遠に存在するということであり」、それは「大切な誰かの人生がずっと続く」ということにつながるからです。

 その昔、世界では領土を巡っての「食うか食われるか」の侵略争いが繰り広げられてきました。

それが「戦争」だったわけです。

戦争に負けて他の国に侵略を許した場合、もちろん国はなくなり、君主は抹殺され、国民は奴隷となり、下手をすると殺されるのが常識でした。

ですから、大切な誰かを守るためには他国に侵略を許してはならず、君主が存在するということは、他国に侵略されていないことを象徴しているわけです。

日本という国は、2674年前(紀元前660年)に初代神武天皇が即位して以来、一度も侵略を受けることなく存続しており、これは現存する国家の中で最も長いのです。(*二番目に長いデンマークで1000年ちょっと)



また、「小さな石が大きな石となるまで」という歌詞は、「起こらないであろうことが起こるまで」という非現実的な比喩表現で、遠回しではありますが「永遠に」を表しています。

しかし、「小さな石が大きな石になる」という非現実的に思える現象は、実は科学的に十分に起こり得る事だそうです。
神社を訪れると、よくこんな石が置いてあるのをご存じないでしょうか。

生田神社(兵庫県神戸市)のさざれ石


橿原神宮(奈良県橿原市)のさざれ石

これが小さな石が合わさって大きな石となったもので、「さざれ石」と呼ばれるものです。

「小さな石が合わさって大きな石となる」というのは、国民一人一人が集まって一つの国を成す様子を想像させます。

この「さざれ石」のごとく日本国民が一つとなり、日本代表の勝利を信じて応援すれば、日本代表がこの「食うか食われるか」のワールドカップの戦いを勝ち抜き、最も長くピッチに立ち続けることもできるのではないでしょうか。
 

山田 剛士

0 件のコメント:

コメントを投稿