2014年3月13日木曜日

掌を、合わせて見上げる、雲なき空よ。

あれから3年の月日が経ちました。

未だにそこに在り続ける仮設住宅、原発、そして残像・・・。

東日本大震災は、日本に悲しい現実を残していきました。


僕は、昨年の10月まで日仏交流コーディネーターとしてフランスに派遣され、

その活動の一環として、現地の大学で日本についての講義をしてきました。

講義をするにあたって、僕が最も取り上げたかったテーマ、それが「東日本大震災」についてでした。

なぜなら、それが「日本人の精神」というものを最も説明しやすかったからです。

マルヌ・ラ・ヴァレ大学での第二回目の講義でこのテーマを取り上げました。

大学側は、地震、津波に加えて原発の話もして欲しいとのことだったので、

それも併せて「Tsunami et Fukushima -impacts dans la vie politique et la société japonaise-(津波とフクシマ-日本社会と政界への衝撃-)」と題して講義を行いました。

この講義に集まってくれた100人近い学生たちに僕が伝えたかったのは、東日本大震災という生死を分ける困難な状況の中で被災者が見せた日本人の精神でした。








あの時、世界が一番驚いたのは、地震でも、津波でも、原発事故でもなく、

被災者の勇気であり、冷静さであり、思いやりではなかったでしょうか。

東日本大震災の際に見られた光景は、例えば、人々が一人一つのおにぎりを受け取るために列に並ぶ姿であり、おにぎりを配ってくれる人に対する感謝のお辞儀であり、頂いたおにぎりを自分では食べずに他人に譲り合う自己犠牲でした。

食べ物の奪い合いはもちろん、スリも強盗も殺人も全くといっていいほど見られませんでした。

しかし、世界の他の国では同じようにはいきません。

実際、アメリカでハリケーンが来た時、あるいは中国で地震が起きた時、強盗や殺人などの犯罪が相次ぎ、無秩序な混乱状態となりました。

これが世界の「常識」であり、それを覆したのは、家族や友達が津波で流され、自らの命も危うい状況の中で、東北の被災者が示した日本人の精神です。

人はああいった非日常的な危機的な状況においてこそ本当の姿が出るのだと思います。

つまり、あの被災者の姿こそが日本人が潜在的に持っている精神であり、日本という自然に溢れた島国で先祖代々受け継がれてきた精神でもあると思うのです。

僕は、あの大災害が我々に残したものは悲しい現実だけではないと信じています。

あの大災害は我々日本人に、日本人とはどういった民族なのか、その精神を再認識させてくれました。

あの日、日本で何が起こったのかを「忘れない」ということは大事なことですが、いずれまた自然災害はやってくるでしょう。それを避けることは出来ません。

その時、我々は何ができるのか、何をすべきなのか、あるいは日常をどのように生きるべきなのか…

それを「考える」ことこそ、あの大災害が残してくれたものなのかもしれません。


がんばろう日本。

進もう、前へ、前へ。



山田 剛士

0 件のコメント:

コメントを投稿